桃の花2

「上巳の節句(じょうしのせっく)」と言うと、聞きなれない言葉かもしれませんね。
では、「桃の節句」と言えば…どうでしょうか?

実は上巳の節句とは、今の「ひな祭り」のルーツとなった年中行事で、五節句の一つでもあります。
(五節句とは、明治時代以前の日本で定められていた正式な年中行事のことです。)


女の子の健やかな成長と幸せを願う「ひな祭り」として、現代になおその風習を残す上巳の節句とは、一体、どのようなものだったのでしょう。


そこで今日は、上巳の節句とはどういうものか?その由来などを中心にお話したいと思います。






上巳の節句、そのルーツは?

水辺の平安貴族
その歴史は、奈良・平安時代にまでさかのぼります。

宮中において、こういった行事や儀式は「節会(せちえ)」と呼ばれており、三月の上巳の日に行われていた節会が「上巳の節句」のルーツということになります。
(「節句」と呼ばれるようになったのは、江戸時代に入ってからということです。)

古来より日本には、形代(かたしろ)と呼ばれるわら人形に自分の災厄や穢れを移し、川や海などに流して禊をする、「流し雛(ながしびな)」と呼ばれる風習がありました。

上巳の節会は、この流し雛の風習と、古来中国より伝来した思想・風習が合わさったものと言われています。

上巳の節句はどういうものだったの?

京都の寺
3月の上巳の節句(節会)では、陰陽師が「禊祓(みそぎはらえ)」と呼ばれる儀式を行い、宮中人たちは神々に供物を捧げ、各々の形代を海や川に流して厄祓い・穢れ祓いをしていた、というふうに伝えられています。

平安の時代においての上巳の節句(節会)とは、男女問わず行われた厄祓い・穢れ祓いの儀式だったようですね。

なぜ3月?上巳って何?

中国の水辺
上巳の節句(節会)がなぜ3月3日なのか?ということは、古来中国より伝来した「曲水の宴(ごくすいのえん/きょくすいのうたげ)」の影響によるものと考えられています。

上巳の日の「上」とは、上旬を指しており、「巳の日」は「十干十二支(じっかんじゅうにし)」という暦において定められている日の一つを指すものです。
(「十干十二支(じっかんじゅうにし)」は、干支を数える暦と言えば馴染みがあるでしょうか。)

つまり上巳とは「上旬の巳の日」という意味になります。

曲水の宴とは?

古来中国では、同じ数字が重なる日(特に奇数)や、季節や時節の節目となる日など、暦の上で意味のある日がいくつも存在しており、その折々においての儀式が行われていましたが、その中の一つに「上巳の日に水辺で禊をする」という風習がありました。


このような思想や風習が一般的であった漢の時代、とある田舎で暮らす除肇(じょけい)という女性が、3月3日に女の三つ子を産みますが、その3日後に三つ子全員が亡くなる、という出来事が起こります。

この出来事では「3」という奇数があまりにも重なっていたため、これを奇異な現象だと思った人々は、穢れを祓うために禊を行い盃を流しました。


それまではさほど明確に月日を定めていなかった「上巳の禊」ですが、この出来事以来、3月3日(あるいはその日に近い巳の日)に行うようになり、これが曲水の宴の始まりというふうに言われています。


そうして、この「曲水の宴」がその由来とともに伝来し、それまで宮中で行われていた「流し雛」の風習と融合して、節会として一つになった…ということのようですね。

節会から節句へ

御所の御簾
鎌倉・室町と乱世の時代へと進む中にあっても、節会は公家により粛々と行われていきました。
3月上旬の巳の日に行っていた節会も、このころには「3日」と日を定めるようになっていたようです。

ただ、その内容は依然として禊であり、まだ今のひな祭りの様相ではなかったようです。


そうして江戸時代となりようやく世の中が落ち着ついたころ、幕府はこれまで宮中で行われてきた節会の中でも特に意味のあるものを「節日(せちにち)」とし、式日(しきじつ/儀式を行うための祝日)として制定しました。
(これらの節日は年間5回あることから「5節句」と呼ばれ、上巳の節句はその中の一つということです。)


このことにより、「上巳の節句」は武家から一般庶民へと浸透していった、ということです。



上巳の節句から桃の節句、ひな祭りへ

桃の花3
現代のひな祭りの起原は江戸時代からの風習になります。

そもそもは男女問わす行われていた禊祓をルーツとする上巳の節句ですが、江戸時代になったころから徐々に、厄払いを兼ねた祈願から女の子の祝いの日へと変貌していきます。


旧暦3月3日に行われる上巳の節句は、その季節がら「桃の節句」、あるいは雛人形を飾る風習から「ひな祭り」と呼ばれるようになり、江戸時代の人々にとって、なくてはならない行事の一つとなっていきました。


そうして、明治時代に五節句の式日廃止となってもなお、現代までこの風習は続いている…ということです。

ひな祭りが「桃の節句」と呼ばれるのは、旧暦時代の名残なんですね。

ひいな遊びからひな人形へ

雛人形9
女の子の「人形遊び(ままごと遊び)」がいつからあったのか?ということは、実際のところ定かではりません。

ですが、源氏物語や枕の草紙の中に「ひいな遊び」の描写が見られることから、平安時代ころからあったとされています。

「ひいな(雛)遊び」はいわゆる「ままごと遊び」のことで、ひいな遊びで使う人形や小物は、この当時、上巳の節句(節会)とは全く無縁の存在だったようです。


江戸時代になり、上巳の節句の意味合いが様変わりしていく中で、禊祓に使われる形代(人形)と、ひいな遊びの人形が融合していったと考えられています。


そもそもは大奥の女性たちが上巳の節句で「ひいな(人形)」を飾って祀ったことが雛人形の始まりのようです。
(一節では「ひいなを祀る⇒ひな祭り」という話もあります)

ひいな遊びは江戸時代においても、女の子のスタンダードな遊びだったことから、女性ばかりの大奥で「人形を飾る(祀る)」というのは、ピッタリとハマるスタイルだったのかもしれませんね。


その後、この風習は上流の武家を中心に、瞬く間に一大ブームとなります。
当初は男雛・女雛だけを飾るスタイルでしたが、次第に、人形の大きさや調度品の豪華さが競われるようになっていったようです。

実際に、江戸幕府は白熱する人形合戦に収拾をつけるべく、雛人形のサイズや過度に華美な調度品を規制するなどの政令を、正式に制定しています。


つまり、「ひな祭り=雛人形」となったのは江戸時代から、ということですね。

なぜ、女の子の祝い日となったの?

「女の子のお祝い」となったのは、「ひいな遊び」の道具であった人形を飾ったことと関係するようです。

女の子の遊び道具を飾ることから「女の子の幸せを願う」という思想が生まれ、いつしか生誕なども含めた「女の子全般のお祝い」へと、その意味合いが広がっていったようですね。

また、男の子の成長を祝う節句は早々に決められたものの、女の子の成長を祝う節句はなかった…ということも関係していたようですね。

上巳の節句 まとめ

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平安貴族の装束をまとう雛人形は、御所での天皇・皇后の婚礼の儀を模していると言われています。

ですので、ひな祭りは何となく「平安時代からのもの」という気がしていましたが、今に伝わるひな祭りのスタイルは、実は江戸時代からの文化だったんですね。

実際に、箪笥や茶道具などの「お道具」と呼ばれる女雛の嫁入り道具を見てみると、江戸時代の品揃えであることが分かります。


江戸時代の女の子にとって、平安時代の宮廷人の雅で華やかな世界は一つの憧れだったのかもしれません。
ですので、武家の姫を中心に流行った雛人形では「良縁」という願いも込めて、自らの嫁入り道具と同じものを飾るようになったのかもしれませんね。


また、今に伝わるひな祭りのスタイルの始まりが、女性ばかりの大奥だったことも微笑ましい感じがします。

男性上位であった時代において、男の子のための端午の節句が存在していたことに対して、「男女平等は大切!」という女性らしい想いの共感により作られていったのが桃の節句…という気がしてきます(笑)。

時代がか変わろうとも、女性の本質はあまり変わらないのかもしれませんね!


年に1度の行事というのは、過ぎ去れば忘れ去るのが今の日常かと思います。
しかし、江戸時代に制定された5節句はほぼすべて、現代までその風習を残すものでもあります。

つまりそれは、大切に受け継がれてきた文化だからこそ、ということでもあります。

ですので、1年に1度だけ、ほんの少しだけ時間を割いて。
節句行事の折には、はるか昔の祖先の想いや願いに心を合わせて、その当時の文化や風習に想いを馳せてみる…というのも、良いかもしれませんよね。


今回お話した上巳の節句のほかにも節句について知りたいなーと思った方は。
ぜひ、下記のページも読んでみてくださいね!


五節句について、詳しくはコチラ⇒『五節句とは何?その意味や由来は?』

端午の節句について、詳しくはコチラ⇒『端午の節句ってどんな日?何をするの?そのしきたりや由来は?』